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アスリートに学ぶ 3-5 [アスリートに学ぶ]

今回の「アスリートに学ぶ」は、中日ドラゴンズの山本昌選手でした。

ご本人が自伝を出されたので、詳しく書く必要もないだろうと、一日で簡単にまとめるつもりだったのが5日に渡ってしまいました。プロ野球生活27年の半分を、駆け足でまとめたところで、1日じゃ終わりませんね^^;

私は山本昌選手の、プロ入りから13年間の野球生活がとても印象的です。山本昌選手は瞑想を初めてから変化が現れます。プロ5年目の野球留学で恩師アイク生原さんに再会します。

「ぼくはアイクさんの知識で生まれた200勝投手」

アイク生原さんにピッチャーとしての全てを学びます。渡米後、アイク生原さんが山本昌選手に手渡したメモがあります。

1.野球をやれることに感謝しながら投げること
2.低めに投げること
3.ボールは前で離すこと
4.常にストライクを先行させること

山本昌選手は、アイク生原さんの他界後も、試合前にメモを見てから登板していたそうです。私はこのメモをの話を知った時に驚きと感動がありました。

一番始めにまず、感謝をすることがあるからです。

不思議なことに活躍しているアスリート達のことを知ると、「感謝」という言葉が多く出てきます。

「アスリートに学ぶ」の初回に有森祐子さんでは触れませんでしたが、小出監督も有森さんに「感謝をして走りなさい」と教えました。有森さんは、

「小出監督に言われたとおり、いろんな人に感謝して走ると、不思議なことに目の前を走っている選手をスーっと抜くことが出来る」

とラジオのインタビューで答えていました。

まず感謝をすること。そこにはマイナスの要素が入り込む余地がないのですね。技術論だけでいいなら「1.野球をやれることに感謝しながら投げること」は、無くても構わない事でしょう。わざわざメモに書く必要もなく、言葉で伝えるだけでもいいのです。

感謝をすることで「今」に焦点を合わせて、丁寧な生き方が出来ます。私達は仕事をする時、している時、「感謝する」なんて事をしているでしょうか^^;

感謝をすることで「低めに投げること、ボールは前で離すこと、常にストライクを先行させること」が生きてくるのでしょう。手先で投げるぎこちないピッチングフォームは、プロ入り4年間に色々なコーチが直そうしても直りませんでした。それが、半年の留学の間に自然と身体を使ったスムーズなピッチングフォームに変化していくのです。

山本昌選手の背番号は入団時より「34」です。ドラゴンズの左のエースナンバー「21」へ変更を打診された時に、

「この番号が自分のプロ生活のすべてを知っているから変えたくない」

と断ったそうです。今でもユニフォームに袖を通すときは、必ずユニフォームの背面にたくさんの感謝をしながら着るそうです。

山本昌選手がプロ入りしてから13年間には表舞台に立っては「なんでこんな目に」と思うようなアクシデントがやってきます。

しかし、一見悪いことが起きているようで、全て良い結果に繋がっています

本人の意思とは関係なく、起きた出来事は、良い結果が得られるように物事が運んでいます(最近このブログで書いたフレーズですね^^)

「自分がやりたいこと」に焦点が合っていれば、必要な物は全て送り届けられてきます^^ この人生劇場で起きる出来事は全て意味があり、必然性を持っています。

悪い事の後には良い事がある、良い事と悪い事は一体、等と言われる事もありますが、そのように思っていたら、良いことも悪いことも起きてしまいます。「自分がやりたいこと」に焦点が合っていれば、良い事しか起きてきません^^

だから、起きた出来事に解釈を付ける必要はありません。訳もなく「ありがたい」と感謝することが大切です。

そして、本人が好きでやっている事は、決して苦労ではありません。他人が見て「苦労したからこそ得られた結果だ」と思い込んでいるだけです。苦しい事でさえ、本人にとっては楽しみです。

山本昌選手の恩師アイク生原さんは「あきらめたら終わり」と何度も言い続けたそうです。失敗したところでやめてしまったら失敗です。躓いても転んでも、「自分がやりたいこと」に焦点を合わせて進めば、自ずと道は開けてきます^^

「好きで始めた野球、自分で決めた野球人生。苦しい場面もあったが、すべてを含めて野球は苦しいのは当然。だから勝った時の喜びは格別。それを味わいたくて。周りからは大変と思われるかもしれないが、勝つためにやることは苦労じゃないです。」(山本昌)

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アスリートに学ぶ 3-4 [アスリートに学ぶ]

球威がない、コントロールもない、フォームが悪い、甲子園出場の経験もなく、全国的には無名の左腕。超高校級と言われる選手達は、恵まれた環境で理想的な身体を作ってきたかもしれませんが、山本昌選手はほぼ何も持たない状態でプロ球界に足を踏み入れました。

入団後、適切なトレーニング方法も判らないまま体を鍛えては、決まって怪我をした4年間。球界を代表する投手に登りつめましたが、身体には目に見えない負担がかかっていました。

95年春頃から膝に違和感を覚え、登録と抹消を繰り返し、挙げた勝ち星は僅かに2つ。左膝は徐々に悲鳴を上げ始め、年末に選手生命を賭けて手術に踏み切る事になります。

手術から僅か4ヶ月で復帰し、5月には9ヶ月ぶりとなる復活勝利を挙げたものの、球威は戻らず7勝止まり。年齢も30を超え、「山本昌はもう終わった」と、囁かれ始めました。

怪我をしてしまっては、投げるチャンスもなくなってしまう。今でも続いている瞑想のきっかけは、自身の怪我でした。

「手術したことを忘れるような体にしていきたい。」

どうして自分は怪我をしてしまうのか。どうしたら一軍のマウンドで思うように投げられるのか。そんな思いから山本昌選手はトレーニング科学の専門家・小山裕史さんのもとを訪ねます。

「ここに来ればケガをしない、何かそういう確信めいたものを持ってる」

小山さんは短距離界の伊東浩司、メジャーリーガーのイチロー等、数々のアスリートの指導している方です。

山本昌選手は、小山さんの指導のもとで、投球フォームを修正していきました。ここでのトレーニングは「真っ直ぐな球を投げる」こと。アイク生原さんと目指した投球術を完成させる為に、これまでの投球の癖を直していきます。

「それまではただ投げているだけだった。自分の投げる形やメカニズムがわからなかった。だから、懸命に勉強した」

山本昌選手は、ストレートをマスターしていく課程で、あることに気付きます。

「この投げ方は体に楽だ。そして、故障した膝にも負担が少ない」

迎えた97年開幕。ナゴヤドームのこけら落としとなったこの年、プロ入り14年目、初の開幕投手に指名されました。開幕戦を白星で飾る怒濤の8連勝。左腕では球団史上初となる100勝達成など、この年18勝で3度目の最多勝を獲得。最多奪三振投手、最優秀投手賞、ベストナイン。

大きな身体を使えず手先で投げていた山本昌選手は、プロ入り5年目の渡米でアイク生原さんと共にプロ左腕としての道を歩み始め、その投球術はプロ入りから13年で完成したのです。


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アスリートに学ぶ 3-3 [アスリートに学ぶ]

野茂英雄選手がドジャースに入る7年前に、2人目の日本人メジャーリーガーが誕生しようとしていました。

ところが、山本選手はドジャース所属の選手ではなくドラゴンズの選手。ドラゴンズとの契約を解消しないと、ドジャース以外の球団では投げられません。

球団にしたら放り出した選手。星野仙一監督は「面白そうだから行かせた」選手。山本昌選手の活躍の様子がFAXで届きますが、皆、半信半疑。

しかし、アイク生原さんから「ホワイトソックスからオファーが来ている」と連絡が入ると、球団側は、「山本があっちで凄いことになっているらしい。」と、星野仙一監督と本格的に協議に入りました。

この年のドラゴンズは4月終了時点で首位広島に8ゲーム差の最下位の成績でしたが。7月から驚異的な快進撃を続けて、まさに優勝争いのまっただ中にありました。

「優勝するにはピッチャーが足りない」

届いたビデオで、山本昌選手の成長ぶりを確認すると、山本昌選手の留学予定を打ち切り、急遽日本に呼び戻すことを決定しました(8月15日)

8月17日緊急帰国。8月22日に首脳陣にウェスタンリーグでその投球を披露すると、8月30日対広島戦で、5回から登板。2イニングを投げプロ初勝利。

9月16日に初先発、6連続奪三振を含む毎回奪三振の記録で初完投。 ペナントレース終盤の8試合に登板して2完封を含む5勝0敗、防御率0.55。この年ドラゴンズは、10月7日に8ゲーム差をひっくり返しての逆転優勝を果たします。

優勝に貢献した山本昌選手は、日本シリーズ第3戦で「秘密兵器」と呼ばれ、先発のマウンドに立っていました。西部ライオンズの工藤公康選手との投げ合いで結果は敗戦となりました。

翌年、大いに飛躍を期待され一軍入り。怪我はない。キャンプも上出来。しかし、開幕から勝てない試合が続き、再び解雇の恐怖が頭にちらつき始めます。

初勝利を挙げることができたのは5月27日、実に14試合目の登板でした。しかしこの試合以降もなかなか勝ちきれません。89年9月23日対阪神戦。星野仙一監督は「今日負けたらもう一度アメリカに行って来い」と、告げます。

この試合で敗戦投手となった山本昌選手は、シーズン途中にもかかわらず、9月、再びアメリカへと旅立ちます。9勝9敗に終わった今シーズンから、「来年は必ず10勝を」と、泣く泣く2度目の留学。

「神様が『もう一度アメリカに行きなさい』と言っているんだ。」

渡米後、アイク生原さんとカーブの習得に取り組みはじめます。

「良い投手はブレーキンブボールを持っている。スローカーブを覚えなさい。ただしこのカーブは3年かかるよ。」

山本昌選手の球を、アイク生原さん自身がミットを構えて受けました。3年がかりでカーブをマスターした山本昌選手は、93年シーズン途中、鎖骨骨折というアクシデントも重なり、1ヶ月戦列を離れたにもかかわらず、17勝を挙げ最多勝と最優秀防御率の二冠を獲得。翌94年は最多勝利投手、最優秀投手賞、沢村賞、ベストナイン。ついに球界を代表する投手に登りつめました。

しかし翌年95年、またしても山本昌選手に困難が襲います。左ひざの故障。この年わずか2勝。シーズン途中で表舞台から姿を消し、オフには手術に踏み切りました。

「もう終わりかなと思った。走ることができなくなったら野球人生も終わると感じた」

と言う山本昌選手。

表舞台に立ってはやってくる困難。しかし山本昌選手は、諦めませんでした。

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アスリートに学ぶ 3-2 [アスリートに学ぶ]

昨日一日で簡単にまとめられると思ったけど2日目突入です^^;
~・~・~・~・~・~・~・~

ドジャースの1Aに合流すると、待っていたのは、前年に山本昌選手を指導していたドジャースの世話役・アイク生原さんでした。

この年、ドラゴンズでのプレイが絶望的になった山本昌選手は野球への情熱が冷めしまっていたそうです。それをずっと励まし続けたのがアイク生原さんでした。投手としての基礎や技術面だけでなく生活習慣まで面倒を見てくれて、アイク生原さんの伝で、当時のドジャースの大投手、フェルナンド・バレンズエラ選手と会う約束まで手配してくれたのです。

マイナーリーグに参戦することになった山本昌選手ですが、実は、ここでも思うようには投げることが出来ませんでした。

上位球団から「どんどん経験を積ませて、早くメジャーリーグに対応した選手にしてくれ」、と期待されている選手は、打たれても、打たれても先発する機会が与えられます。

ところが、ドラゴンズの選手は、ドジャースにとっては友好関係のためにやってきた「お客様」。中5日のローテーション以外に登板機会はありませんでした。

そこでアイク生原さんが、少ない登板機会で結果を残す為に

「おれの伝でバレンズエラに会うことが出来るようにする。バレンズエラの決め球のスクリューボール(左投手の投げるシンカー)を教えてもらえ。スクリューボールがあれば、お前は凄いピッチャーになれる」

と、山本昌選手を焚き付けます。

「スクリューボールはバレンズエラの切り札。そう簡単に人に教えてくれるものなのか?」と、半信半疑でバレンズエラ選手と会うことになった山本昌選手。

バレンズエラ選手も自分の決め球をライバルに教えるような事はしません。しかし当時は日本人選手がメジャーリーガーになることなんて考えられなかった時代で、しかもアイク生原さんの仲介もあって、手取り足取りの指導を受けられたのです。

ところが球は曲がらない。変化しないのです。教えてくれる事のレベルが高くて判らない。言われたとおりに投げているのに、全然曲がらない。そもそも体力も体格も違う大リーガーの肉体なら出来るのだろうが、「スクリューボールはおれには無理」と、マスターできなかったそうです。

新しい変化球の手応えもなく、山本昌選手の登板日がやってきます。

向こうの野球は、日本のように、みんなでストレッチランニング、ノック等をする事はありません。全て自主練習で、怠けようと思えばいくらでも怠けられますし、誰にも咎められません。試合の直前までカードゲームをやっている選手や、グランドに出ても遊んでいる選手がいるような状態。

外野では「第一球のモーション、投げましたっ」なんて、仲間の三塁手の選手が練習もしないでピッチャーごっこをして遊んでいました。山本昌選手がその様子を見ていると、その選手の投げた変化球が少しだけ曲がってる。

山本選手が彼に、「その球は何?」と、聞くと、「シンカー」だと答えたそうです。

「ちょっとおれにも握り方を教えて」と3人で三角キャッチボールをする事に。すると、他の2人がやっても少ししか変化しないのに、山本昌選手が投げるとビックリするぐらい変化する! 当たり前です。投げ方が違うのです。握りは同じでも、投げ方はバレンズエラ直伝。

その日の夕方の試合で、山本昌選手が登板するときに、キャッチャーから「また打たれんなよ」と、発破をかけられ、売り言葉に買い言葉で、「おれは変化球一つおぼえたぞ」と言い返したそうです。

「何をおぼえたんだよ」
「スクリューボールだよ」
「じゃあ、サイン出すぞ」

なんて、その日、遊びで投げた球を実戦で使うことに。すると、打者をいとも簡単に打ち取れる。実戦で使えるのです。

「投げ方はバレンズエラ選手から。握り方はチームメイトから。これでものすごいスクリューボールが投げられる。」

この日からアイク生原さんとの二人三脚でスクリューボールの完成を目指して練習をし、次第に野球への情熱を取り戻します。

野球は楽しい!

スクリューボールをマスターした山本昌選手のピッチングを見た、往年の名投手サンディー・コーファックスさんに、

「彼は、あなたが4月に、サイドにするか、トラックの運転手になるべきだといった、あのときの投手ですよ」

と、アイク生原さんが言うと

「おれがそんなことを言うはずがないだろう」と惚けたそうです。

8月の上旬までに積み上げた勝ち星は13勝。ついには1Aのオールスターに出場となります。

「ドジャースが一軍で使わないなら欲しい」

とうとう、他のメジャーリーグ2球団から、「メジャーの試合に移動して投げて欲しい」、と打診され、契約交渉が始まったのです。

こりゃ驚いた!

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アスリートに学ぶ 3 [アスリートに学ぶ]

今日は「あ・お・う・会」。更新はお休みです。

プロ野球もいよいよクライマックスシリーズ突入しました^^ セリーグで中日がリーグ優勝を決めた時の、落合監督の言葉が印象的でした。

「鍛え上げているんです。1年、2年のことじゃない。7年間でチーム作りをしてきた結果が出た。優勝は、みんなが何年もかけて積み上げてきた、ご褒美なのかな」

中日ドラゴンズは、落合監督が就任して7年。成績は全てAクラス。3度のリーグ優勝。日本一も1度達成という快進撃をしています。ドラゴンズには45歳の現役投手、山本昌選手がいます。野球ファンなら誰でも知ってますね^^

山本昌選手の今期の成績は5勝1敗。山本昌選手が3敗していたら(3勝3敗だったら)中日のリーグ優勝はありません。45歳の山本選手があげた5勝は凄いことです^^

山本昌選手は、決してエリートではありません。1984年にドラフト5位で中日に入団。コントロールもない、球威も130knそこそこ。プロに入って、剛速球の小松辰雄さんのピッチングを目の当たりにし、「自分はとんでもないところに来てしまった」と思ったそうです。

2軍で黙々とプロの身体作りをする山本昌選手でしたが、春先になると決まって怪我をしていました。その為、結果が残せないのです。3年目でやっと一軍での登板機会がありましたが1試合のみ。打者5人、被安打2(本塁打1)、防御率27点。

4年目も春先に怪我をしてしまいます。まるで「季節の変わり目になると風邪を引く」みたいな話ですね。プロ野球選手に怪我は致命傷です。怪我をして戦力にならないのであれば、球団は見放してしまいます。山本昌選手は、一軍の登板機会さえもらえずに退団となるかも知れないのです。

山本昌選手は、怪我の治療中に、ある人物の薦めで、毎朝、瞑想を始めることになったそうです。「早く怪我が治りますように。」 いえいえ、そんな小さな夢ではありません。プロ野球選手として大成している自分をイメージして。

毎日瞑想を続けていると、様々な変化が現れました。まずは、みるみる間に怪我が治ったこと。まずは投げられなければ結果も出せない。そんな危機から、治療がシーズン後半戦に間に合い、1軍での3試合の登板機会を得ました。

しかし成績は振るわず、球団側は山本昌選手を、この年の整理対象選手と判断します。そこはプロの世界です。4年やって結果が出なかったのでは仕方がありません。また春になって怪我をするかも知れない選手に払う給料はないのです。

ところがここでも山本選手は首の皮一枚が繋がります。当時の星野仙一監督が「山本は身体が大きい。努力しても大きくなることは出来ない。体が大きいというだけでそれは才能だ。残しておけ」と言ったことで、5年目を迎えられることになったのです。

5年目の1988年。毎朝の瞑想は続いています。この年のドラゴンズは、ロサンゼルス・ドジャースとの業務提携を行い、春季キャンプアメリカのフロリダベロビーチでドジャースと半合同で行いました。

キャンプの後半は沖縄で行われ、そこで山本昌選手は、野球交換留学でドジャース傘下の1A(ベロビーチ・ドジャース)へ行くように告げられます。

交換留学というと聞こえが良いのですが、山本昌選手にとっては崖っぷちの5年目。まだ、整理対象選手からは外れていません。一軍で結果を出さなければ首なのに、「1Aに行け」というのは、遠回しに首を告げられたようなもの。

そもそも、一軍での活躍が期待される選手を、球団が手放すはずもありません。キャンプ中のA1行きは、「キャンプでのあなたを見てきたけど、今年は、あなたは必要ありませんよ」といわれたのも同然です。

球団はドジャースとの友好関係を保っておく為に、要らない選手を送り込んだ、ということろです。
星野仙一監督は当時のことを、「面白そうだから行かせた」と話しています。

ところが、泣く泣くアメリカへ渡った山本昌選手には、人生の転機が訪れます。

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